国文学科の歴史
国文学科の歴史は、1924(大正13)年までさかのぼることになります。 当時、神田三崎町にあった日本大学法文学部に文学科が設置され、そのなかに6つの専攻が置かれました。 哲学、倫理学教育学、心理学、国文学、漢文学、文学芸術の各専攻です。 この国文学専攻が現在の国文学科の始まりにあたります。 このときの国文学専攻主任は、山田孝雄先生(注1)でした。

※1951年10月、講演中の山田孝雄先生。
1928(昭和3)年、第1回卒業生10名が送りだされ、同時に日本大学国文学会が創立されました。 初代会長は専攻主任と同じく山田孝雄先生で、副会長が坂元三郎(雪鳥)先生(注2)でした。
1929(昭和4)年のときの講師陣のリストが残っています。 専任の山田・坂元先生のほか、今園国貞、守随憲治、笹川種郎、湯地 孝、高野辰之、次田 潤、森本治吉、 上田萬年(注3)、東条 操、神保 格といった先生方のお名前をそこに見ることができます。
1934(昭和9)年、日本大学国文学会の機関誌『国学』が創刊されました。 編輯後記によれば、刊行の趣旨は以下の通りです。 『国学』なる誌名は、日本精神を闡明し、わが精神文化を登揚せんとする我等の旗幟である。 無論、右傾的な意味のものでもなければ、左傾的なものでもない。 主として、国語・国文の研究を通して、日本文化の神髄を明らめる所以の道だ。」 この年には、「短歌講座」も開かれ、尾上柴舟、金子元臣、釈迢空、斎藤茂吉、 土屋文明、武島羽衣、北原白秋といった錚々たる歌人が講演されました。
1935(昭和10)年は、国文学科の歴史において1つの画期となります。 この年の暮れに国語学研究室が特設され、講師の上田萬年博士から寄贈された図書約1435点7045冊を 陳列した部屋が出来たのです。この書籍は、上田文庫と名づけられ、現在は文理学部図書館に収蔵されています。 そのなかには博士が譲り受けた言語学者B・H・チェンバレンの旧蔵書も含まれています。
こうして国文学科は教員スタッフ、研究資料ともに徐々に充実していくことになりますが、 迫り来る戦争は研究や教育にも大きく影を落としていくことになりました。 幸運にも東京大空襲では類焼を免れましたが、組織的には専任教員1名のみとなり、 しかも決戦非常措置により授業停止などの命令を受け、実質的な休業を強いられました。 戦後、新しい政治体制のもと、国文学科も再開されます。
このとき率先してリードされたのが、新しく着任された高木市之助先生(注4)です。 高木先生は、鈴木知太郎、風巻景次郎、内海繁太郎、山田忠雄先生とともに、 国文学科の再建に従事されました。学制変革のあった1949(昭和24)年、 法文学部文学科は独立して文学部となり、国文学専攻も国文学科と改まりました。
1951(昭和26)年には、国文学会機関誌『国学』を『語文』と改称し、その第1号を刊行しています。 大学院の修士課程(国文学専攻)が設置されたのもこの年です。

※1949年6月、新制大学新入学生と。前列左から森淳司、竹内金治郎、高木市之助、山田忠雄、鈴木知太郎の各先生。
1958(昭和33)年、校舎が三崎町から世田谷の現在のキャンパスに移転になりました。 同時に文学部に教養部を吸収し、理系の学科を増設して、文理学部が発足しました。 このときの教員スタッフは、教授では秋葉安太郎、鈴木知太郎、山田忠雄、高木市之助、 島方泰助、岸上慎二、竹内金治郎、森脇一夫、助教授では田中宗作、井狩正司、金子義夫、 専任講師では有吉 保、森 淳司、講師には吉田精一、窪川鶴次郎、松尾 拾、野元菊雄、 守随憲治、大久保忠国、宝月圭吾、近藤賢三、田山信郎、橋本不美男といった先生方がおられました。
さらに1961(昭和36)年には、大学院の博士課程(国文学専攻)が設置され、現在の組織の原型が完成しました。

※1965年3月、卒業生の謝恩会にて。手前後ろ姿、左から森脇一夫、三澤光博、奥の左から竹内金治郎、岸上慎二、鈴木知太郎、高木市之助、窪川鶴次郎の各先生。

※1966年6月。国文学会懇親会にて。左から有吉保、永岡健右、中川幸広、山田瑩徹、岡野道夫、杉谷寿郎の各先生。
大学入学者が増加するにつれ、組織も大きくなり、国文学科の定員は、 1958年の開設時は一部二部あわせて100名となり、二部廃止が決まった1976(昭和51)年には一部だけで130名となりました。 名実ともに、私立大学の文学系学部の国文学科として大所帯の組織となったのです。
その後、少子化に伴う進学年齢層の減少によって、かつてのような受験者数は望めなくなりましたが、 日本文学・日本語学研究の2つを軸に、伝統をふまえながら、新しい研究方法や理論、 情報技術のスキルを身につけ、21世紀をリードする研究・教育のフロンティアを目指しています。
注1
山田孝雄(やまだよしお)[1875‐1958]
国語学者。論理学をとりいれて山田文法を構築し、『日本文法論』を著す。 さらに『平安朝文法史』『五十音図の歴史』で知られる。また『平家物語考』『国学の本義』など、 言語学にとどまらず文学や歴史学にも業績をのこした。日本大学の国文学科の基礎を形作るとともに、 東北帝大教授、神宮皇学館大学長、国史編修院長などを歴任。1957年に文化勲章を受賞。
注2
坂元三郎(さかもとさぶろう)[1879‐1938]
能楽研究者。雅号は雪鳥(せっちょう)。旧制の第五高等学校時代に夏目漱石の教えを受ける。 東京帝大の国文学科を『枕草子』研究で卒業したのち、東京朝日新聞社に入社。 ふたたび漱石に親しく接する。「天邪鬼(あまのじゃく)」の筆名で、三十余年、同紙の能評欄を担当した。 1928年に本学科に着任され、初期の国文学科の基礎固めに貢献。著作に『坂元雪鳥能評全集』二巻など。
注3
上田萬年(うえだかずとし)[1867‐1937]
国語学者。チェンバレンについて国語学を専攻し、ドイツに留学、ヨーロッパ言語学を学んだ。 1894年に東京帝大の教授に就任。言語学の最初の講座を開くなど、近代国語学の基礎をきずいた。 この間、文部省専門学務局長を兼任し、東京帝大の文科大学長(現在の文学部長)、 国語調査委員会主査委員などをつとめた。著作に『国語のため』など。 小説家の円地文子の父にあたる。
注4
高木市之助(たかぎいちのすけ)[1888‐1974]
国文学者。卒業論文は「叙事詩として観たる平家物語」。京城帝大教授の時代に、 芸術と風土の関係に着目。『吉野の鮎』で記紀万葉の文学性を追究。九州帝大をへて、 1948年に日本大学国文学科に着任。史学、民俗学、神話学などの隣接領域をとりいれながら戦後の文学研究を導いた。 他の著作に『日本文学の環境』『古文芸の論』『国文学五十年』など。